

お大師さま、唐へ渡る
奈良時代の末、日本の仏教界は転機を迎えていました。形式化しつつあった仏教に限界を感じ、新たな教えを求めていた若き僧——それが、後のお大師さま(弘法大師空海)です。彼の仏教への探求は、ついに当時の世界最大の都であった、唐(現在の中国)へと向かわせることになります。
■ 夢のお告げと経典との出会い
若きお大師さまは、日々の修行の中で、仏さまの御前にて仏教へのまっすぐな心を静かに打ち明けていました。するとある夜、不思議な夢を見ます。夢の中に現れた人物がこう告げたのです。
「ここに『大毘盧遮那経(だいびるしゃなきょう)』という経がある。これこそ、其方が求めている教えである。」
目覚めたお大師さまは胸を高鳴らせながら、その経典を求めて各地を歩き回りました。そしてついに、大和国(現在の奈良県)高市郡の久米寺(くめでら)、その東塔の下で、夢に現れた通りの『大毘盧遮那経(大日経)』を発見します。
歓喜してその経巻を開いたお大師さまでしたが、そこに記されていた密教の深遠な教義は、難解を極めました。いくら読んでも、いくら読んでも、核心にはたどりつけません。そこでお大師さまは決心します。
「この国には、この教えを正しく伝えられる者はいない。ならば、私は唐に渡って、直接その真意を学ぼう。」
こうして、延暦23年(804年)5月12日。お大師さまは31歳にして、真理を求める一心で遥か唐への航路に身を投じたのでした。
■ 遣唐使船に乗って
延暦23年(804年)、日本は第16次遣唐使を派遣します。最澄や橘逸勢(たちばなのはやなり)なども参加したこの一団に、空海は留学僧として加わります。当時、彼はまだ官寺に属さない無名の僧でしたが、自らの探究心と信念により、乗船の許可を勝ち取ったのです。
一行は4隻の船に分かれて出航しましたが、激しい嵐に見舞われ、お大師さまの乗った船はなんとか福州(現在の中国福建省)に漂着します。現地の役人との交流では、お大師さまの漢文能力や詩文の才が高く評価され、やがて長安(現在の西安)への入京が認められました。(当初、お大師さま一行は海賊と間違われていたとか・・・)
■ 恵果阿闍梨との邂逅
長安では、密教の第七祖にあたる高僧・恵果(けいか)阿闍梨と出会います。恵果は、インドから中国に伝わった密教の正統な継承者であり、お大師さまの到来を「来るべき者が来た」と、とても喜びました。
運命の師・恵果阿闍梨に師事したお大師さまは短期間で灌頂<かんじょう>(灌頂とは、本来は僧侶が師から法を正式に伝えられる儀式で、水を注いで心身を清め、仏の智慧を授かることを意味します)を受け、密教の核心的な教義を伝授されました。これは当時としては異例のことであり、お大師さまの並外れた理解力と修行の姿勢がうかがえます。
■ 密教の法宝を携えて帰国
恵果は密教の根本経典や曼荼羅、仏具などをお大師さまに授け、日本で弘めることを託したと伝えられています。お大師さまは帰国後、これらを「三十帖冊子」として整理し、密教の教義を日本に伝える基礎を築きました。
大同元年(806年)、わずか2年の滞在という短期間で唐の仏教の精髄を学び終えたお大師さまは、帰国を許されます。帰国後、お大師さまが日本にもたらした密教は、後の日本仏教に大きな影響を与えることになります。
■ 志と行動力の象徴
お大師さまの唐留学は、単なる仏教留学にとどまりません。それは、当時の日本にない新しい教えを求め、自らの足で学び、そして伝えるという、お大師さまの揺るぎない使命感に満ちた旅でした。現代に生きる私たちにとって、お大師さまの志と行動力は多くの示唆を与えてくれます。
唐で得た教え——それが、やがて真言宗の成立と、日本密教の確立へとつながっていくのです。


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