

カレンダーの余白が、黒いインクで埋まっていく。 企画書の締め切り、クライアントとの打ち合わせ、鳴りやまないスマートフォンの通知音。目まぐるしく過ぎる毎日に、私の心はいつの間にか、ささくれ立っていた。
東京のデザイン事務所で働く、沙耶、29歳。 好きなことを仕事にしたはずなのに、最近はPCの画面と睨めっこするばかり。ふと窓ガラスに映った自分の顔は、なんだかとても疲れて見えた。
「私、このままで、いいのかな……」
そんな時だった。心の置き場所を探すようにネットの海を漂っていて、偶然見つけたのが、高野山不動院の『仏女通信』という特設サイト。そこに綴られていた特集やビジュアルが、乾いた心にすぅっと染み込んでいくのを感じた。
「高野山かぁー。一回行ってみたかったんだよね。」
それは、ほとんど衝動的だった。 休みの申請をして、少しだけお洒落をして、一人、関西に向け、電車に乗り込んだ。
高野山に着いて、目的のお寺、不動院近くのバス停に降り立つ。賑やかだった周囲の音がだんだんと遠ざかっていく。木々の緑が深くなり、空気が澄んでくるのが肌で感じられた。やがて、奥まった場所に続く、一本のまっすぐな道が見えてくる。不動院へと続く、ゆるやかなアプローチだ。
自分の足音だけが、辺りの静寂に優しく響く。 一歩、また一歩と進むごとに、都会で身にまとった鎧がはがれ落ち、心が本来の柔らかさを取り戻していくようだった。このまっすぐな道そのものが、心を洗い清めるための儀式なのかもしれない。
長いアプローチの先に、ようやく不動院山門が見えてくる。 「山内随一の静寂」という『仏女通信』で読んだ言葉が、すっと胸に落ちてきた。「良く、お参りくださいましたね」と、静かに私を迎え入れてくれた気がした。
門をくぐると、そこは外界と切り離された、清浄な空気に満ちた空間だった。 もう、別世界。強張っていた肩の力がふっと抜けていった。
お部屋に通され、私はただ、そこにある静寂に身を委ねる。日々の焦りや不安、言葉にならないモヤモヤした気持ちを、心の中でそっと打ち明けてみた。すると、なんか、「すべて、わかっているよ」さやしく答えてくれたような気がした。
私が宿泊させていただくのは、半露天風呂の設えられた、特別客室、「瑞雲」。畳の匂いが心地よい静かな空間。窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭が広がっている。私は、目的の一つだった「お写経」を体験させていただくことにした。
硯でゆっくりと墨をする。カラカラという乾いた音が、心を落ち着かせてくれる。 和紙の上に、お手本を重ね、筆を執る。 一文字、また一文字。ただひたすらに、なぞっていく。
「もっと上手く書かなきゃ」 「ああ、少し曲がってしまった」
最初はそんな雑念が浮かんでは消えた。けれど、しばらくすると、不思議と何も考えなくなった。聞こえるのは、衣擦れの音と、自分の呼吸だけ。 頭の中を占領していた「やらなければいけないこと」のリストが、墨の黒に溶けて消えていく。 これだ。私が求めていたのは、この「無心」になる時間だったのかもしれない。
お写経をしていると、
「焦らなくても、大丈夫ですよ」
ふと、声をかけてくださった副住職さん。私の心を見透かしたような、温かい言葉だった。
「あなたの歩幅で、あなたの速さで進めばいいんです。疲れたらいつでも、いらしてください」
その一言で、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。 堪えていた涙が、熱い雫となって頬を伝う。 それは、悲しい涙ではなかった。凝り固まった心が、するすると解けていくような、温かくて、優しい涙だった。
帰り際、御朱印帳に見開きの力強い文字をいただいた。墨の黒と朱のコントラストが、まるで今の私の心を表しているよう。可愛らしいお守りも一つ、自分へのお土産に選んだ。
山門を出て、まっすぐで凛としたアプローチをゆっくりと下る。 なぜか、振り返りたくなって、「ありがとうございました」 声には出さず、心の中で深く一礼した。
東京に戻った次の日。
変わらないはずの景色が、ほんの少し違って見える。
スマートフォンの電源は、まだオフのまま。
きっと明日からは、もう少しだけ、自分に優しくできる気がする。
──また、行こう。
そう、決めた。 ここはもう、特別な観光地じゃない。 いつでも帰ってこられる、私のための「マイ寺院」だ。